ハンセン病隔離に反対した小笠原登医師を描いた「一人になる」を鑑賞!
モクレンが青空に映えて眩しい輝き!
ゆんたくの集まりの後、ハンセン病国立多磨全生園内にあるお食事処なごみでお昼ご飯!
カツカレーを頂きました。
午後からは中央公民館へ。
「一人になる」を鑑賞。
130人くらい来場されていました。
すごい内容でした。
一人で静かにハンセン病は移らないと唱えた方が小笠原登医師。その反対に光田健輔医師は、国会でハンセン病は伝染病だから捕まえてでも隔離しなければならないと発言した人であり、らい予防法ができ無らい県運動を先導した医師でもあります。
全生病院は、一番最初に断種手術が行われた場所でした。まだ、男性への断種手術は医師も経験がなく、ハンセン病の方々が実験台でした。
その中で、小笠原登医師がいた奄美和光園は職員の協力もあり、密かに出産をしていました。キリスト教の乳児院がその子達を預かり育てていたそうです。
他の療養所では産声を上げている命に看護師が濡れた紙を被せ窒息死させ、ホルマリン漬けにしていた史実。人間の優生思想は恐ろしいです。私達と同じ日本人がしてきた所業です。日清日露戦争で植民地にした国や欧米と比べ、日本はハンセン病の割合が異常に高く、恥とされていたため、強制隔離を国策で進めました。優秀な国民を作り出すことに重きが置かれていました。
弱い菌でありながら強制隔離を国策として先導する旗振り役の水田健輔氏には、ハンセン病隔離に貢献したことで文化勲章が贈られ表彰されています。
移らないのに隔離され療養所で骨となっても国に帰れず納骨堂で眠っている方々の無念さを存在を忘れずにいきます。
小笠原登医師は、一生独身でハンセン病の治療に奔走された方です。ハンセン病とわかっても移らないから多発性皮膚炎と病名を書き診断書を出していた方です。
療養所に入ったら二度と人間的な日常を過ごすことはできないとわかっていたから、敢えて抗い、人権尊重に努めてきた方でもあります。
真実を語る人が冷遇され、誤った見解で人命を軽視した人に従ってしまったことが、取り返しのつかない悲劇を生んだ国、日本。当時の政権の責任は重大であり、らい予防法と旧優生保護法を廃止しなかった歴代の政権も同様に人権侵害を継続しました。ハンセン病家族が起こした国賠訴訟は勝訴しています。強制隔離を国策として実行した責任の上でも控訴せずを公表すべきです。葬られたいのちと人生は取り戻せないのですから。
知っているようで上部しか知らない私達も深くハンセン病の歴史と政治情勢と照らして学び直す必要を強くしました。
映画の中で一番印象に残った優位学そのものである
昭和26年に参議院厚生委員会での三園長の発言です。
林芳信(当時多磨全生園園長)
「我々が推定いたしますと、大体一万五千の患者が全国に散在して、そのうちただ今は約九千名の患者が療養所に収容されておりますから、まだ六千名の患者が療養所以外に未収容のまま散在しておるように思われます。」
水田健輔(当時長島愛生園園長)
「手錠でもはめてから捕らまえて強制的に入れればいいのですけれども、ちょっと知識階級になりますとなんとかかんとか逃げるのです。そのような者はどうしても収容しなければならんという、強制のもう少し強い法律にして頂かんと駄目だと思います。」
宮崎松記(当時恵風園園長)
「患者の数と申しますのは、らいの数を出しますことは古畳を叩くようなものでありまして、叩くほど出て参ります。出てこないのは叩かないだけのことで、徹底的に叩けばもっと出てくるのではないかと思います。」
映画の最後に、らい菌は移らないので、ハンセン病を「平凡」と表していました。
子どもや若者に観てほしい映画です。
「厚い壁」と共に「一人になる」を人権教育を学ぶ教材として学校等で必須にするべきだと思います。
誰もが持つ優生思想に気づく機会を意識して作る。そして、人間の尊厳を繰り返し、繰り返し学び合うしか方法はないです。優生思想は根深いですから。
らい予防法や旧優生保護法がもたらした負の歴史を学ぶ貴重な時間をありがとうございました。今を生きる私達の役割として、ハンセン病の事実を史実を語り継いでいきます。差別や偏見を生まないまちとするために。
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